“金貸しの取立てをしているチンピラに彼女ができて有頂天。おまけにチャンピオンの気まぐれからタイトルマッチが決まって生肉を叩く謎トレーニング。
その甲斐あってチャンピオンを追い詰めるが結局ぼろ負け。対戦相手の感想を訊かれても恋人の名前を叫んじゃうぐらいダメージを負った
へっぽこボクサーの話”
“休養に来た観光地で美少年に出会ってウキウキ。何とか関心を引きたくてお化粧したり後をつけまわしたりするけど相手にされずガックリ。
「疫病が流行ってますよ」と言われているのにまだ美少年を追いかけてフラフラ。結局死んじゃう
まぬけな音楽家の話”
“猿が板に触ったら色々あって、サイケな映像とCGが映ってなんか赤ちゃんになって感動的な音楽でなんとなくうやむやになってしまう
イメージ映画”
書いててつらかった。
すべて私の大大大好きな映画、人生に影響を与えた映画たちだ。
お分かりの諸兄もいらっしゃるだろうが、上から
『ロッキー』
『ベニスに死す』
『2001年宇宙の旅』
だ。
では、私はなぜそんな苦行にも似た作業をしているのか?
それは映画史に燦然と輝くかの名作たちも、ある視点から表現するとこんなトンデモな映画になってしまうということを示したかったのだ。
その視点とは「へっぽこ映画として評価してやろう」である。
以前、“信念は真実ではないが、それを真実として生きれば真実になる”と書いた。
人は信じたいものを見、聴き、感じとり、「そらやっぱり」と自分の信念を補強する。
そして、自分の信念に合致しない物事は「例外」として意識にのぼることさえない。
信念を真実として生きる、というのは「準拠枠」だともいえる。
準拠枠――交流分析のアイデアで、
人が自分と他者と世界を見るために用いる知覚、概念、情緒、行動のセットと説明される。
これも良し悪しでなく、人間は誰でも「準拠枠」を持っている。生きていくために準拠する、ベースとなるものがなければ何もできないだろう。
だから私たちは全員何らかの色眼鏡で、または貼りついた鱗越しに世界を見ているのだ。
準拠枠の説明が「知覚、概念、情緒、行動のセット」というところがミソだと思う。ここに挙げた4つはシステムで、どこかをつつけばすべてに影響を与えることは想像に難くない。
「へっぽこ映画として評価してやろう」という視点=準拠枠で映画を観るなら、どんな名作でもトホホなあらすじを導き出すことができる。
そしてそのレビューをうのみにすれば、つまり<思考のウイルス>に浸食されれば、人生体験ともいうべき映画との出会いを逃してしまうこともありうるだろう。
前回の“少なくとも何らかの関心を持ってくれている人がこのブログにやってくる”のくだりで
「コーチングなんて使えないものをどんな宣伝してやがるんだ」
こういう関わり方をしている人もいるだろうと予想した。
多分私の文章から「コーチングが使えない証拠」を100個は見つけられるに違いない。
たとえ良くないことであっても、人は自分の予想が当たると嬉しいものなのだ。
話は変わって。
信念や準拠枠。それらがクライエントの人生の可能性を狭めているなと感じた時、コーチは「ゆさゆさ」してみる。もちろん質問によって。このあたりがコーチングの醍醐味だろうか。
今回の私の結論。