え? うん好きですよSF小説。
学生時代はアメリカSF黄金期の三巨匠、アシモフ、クラーク、ハインラインを読み漁り、
ウィリアム・ギブソン『ニューロマンサー』でサイバーパンクの洗礼を受け、
神林長平の『雪風』や『火星三部作』で人間や知性について黙考する。
私はそんなSF者だ。
素晴らしいSF小説とはエンタテインメントとして完成しているだけでなく、なにより文明批評の器でなければない。
いやむしろ、『宇宙戦争』や『タイムマシン』、『RUR』などSFは誕生した時から文明を批評する運命にあったと言える。
近未来や異なった世界を描くことは、あわせ鏡の様に現実世界を照射する。
歴史家、文明史家が現代から未来を見通すように、優れたSF作家は未来から現代を描き出しているだろう。
そんなSF作家も人の子、彼ら彼女らのイマジネーションにも限界がある。
当時のあまりの実現可能性のなさにそのビジョンを描けなかったのだろう。
俗に言う「SF作家が予見できなかった2つのこと」である。
一つは「家に居ながらにして月面着陸をリアルタイムで見られる」
このチョイスも時代を感じる。
宇宙開発華やかかりし頃、よもや政府機関が衛星到着の情報を開示するとは思われなかったし、それが宇宙放送で全世界に同時中継されるとは。
もう一つは「コンピュータの小型化」
確かに昔のSFはコンピュータは高性能になればなるほど巨大化し、ビルほどの大きさのマザー・コンピュータにパンチカード(!)で命令を入力していたっけ。
しかし、人間は宇宙中継を茶の間で見、一家に一台高性能コンピュータを持つようになった。
西に進めばインドに行けることを証明するために
人が空を飛ぶために
ほかの天体に到達するために
100メートル10秒を切るために
いつの時代も「ここが限界」という壁を誰かがぶち破り、そのつど人類の可能性は押し広げられてきた。
多分現代SFで物語られているテクノロジーもいつかは実現することだろう。
可能性。そう、コーチングをしていると可能性ということを考えざるをえない。
コーチングをしていると、必ずクライエントのゴール到達を邪魔するものに突き当たる。
それは当たり前。邪魔がなければもうゴールに到達しているし、コーチングなんか必要ないから。
その邪魔の一つがクライエントの自分を制限する信念。
自分にはゴールにたどり着く「可能性」がない、という信念だ。
今回の私の結論。