私たちは言葉を使うことに余りにも無頓着すぎるのではあるまいか。
だから平気で
私には才能がない
私には能力がない
私には素質がない
などと口にしてしまうのだろう。
もちろん人間は自力では飛べないし、100mを一秒で走ることはできない。
だがそれら現象と、自分に対して否定的ステイトメントを投げかけることはまた別の話だ。
そもそも、「才能」「能力」「素質」は“ある”とか“ない”とか言える性質のものなのだろうか?
私たちがこれらを“ある”/“ない”と表現するとき、「才能」「能力」「素質」をあたかも一つの物体のようにイメージしてはいないか。そして、それらを自分が持っているか持っていないか、という二つに一つで考えてはいないか。
実際、「才能」や「能力」などは物体、一個物ではない。それがある/なしで表現したとたんにオールオアナッシングの世界に突入する。
これは言語の働きによる錯覚である。
私たちの活動、動きのあるプロセスを言語表現が凍らせてしまうために起きる。
例えるならビデオをスナップ写真にしてしまうようなものだ。
私は歩く。
と
私は歩行する。
この二つの文章から受け取る印象の違いを感じていただきたい。
私は楽しむ。
と
私は楽しみを感じる。
とか。
「才能」も「能力」も「素質」も、私たちの活動、プロセスを形容したものである。すべて私たちが何かを表現した結果であって、「才能」「能力」「素質」が単体で存在するわけではない。
日本語にするとあまり違いが感じられないかもしれないが、
○○をする才能
○○をする能力
○○をする素質
というのがもっと本質に近い表現だろう。
自分にはゴールにたどり着く「能力」がない、という信念を持っているクライエントもいる。コーチのやれることはいくらでもあるが、このような言葉の使い方をつんつんしてクライエントの自己規定をゆすってあげることもできる。
「ゼロ! 時は動き出す」
クライエントの動きを止めた世界、凍った世界に時の流れを回復させるのもコーチのお仕事である。
今回の私の結論。