TAというレンズを通してコーチングについて書いてみた。そこで思い出したのが一ヵ月前に書いたこの文章だ。
「多分、あなたは“コーチ”または“コーチング”を学んだという人に、
・何気ない会話の中でいきなり質問された
(なぜ雑談中に挑戦的な質問をしてくるのか・・・)
・悩みを打ち明けたら最初の一歩を訊かれた
(慰めてほしいだけなのに・・・)
・答えが必要なので質問したら質問し返された
(知らないから質問してるんだけど・・・)
という目にあわされたのではないでしょうか。」
コーチングスキルを身につけた暴漢という記事、コーチやコーチングに対して悪感情を抱いてしまうこんな体験をしたんじゃないですか? という例として挙げた。三つの場面、あなたなりのシチュエーションが思い浮かぶのではないだろうか。
人と人のいるところ交流あり。交流あるところ分析あり。交流分析の出番である。
まずはこのくだり。
・何気ない会話の中でいきなり質問された
(なぜ雑談中に挑戦的な質問をしてくるのか・・・)
ぐっと間を詰められるこの感じ。これは
被害者とエセコーチは時間割が違う
ということだ。片方が国語の授業だと思っているところに、もう片方は家庭科の授業だと思って臨んでいるようなものである(違うか?)。
TAでは人が集まって過ごす“時間の過ごし方”を6つに分類している。「時間の構造化」というやつだ。
人が潜在的に恐ろしく思っているものの一つに「未来が不確定なこと」がある。確かにこれから何が起こるのか、自分がどうなるのか予測できない状況はストレスだ。
ゆえに、人はこれから体験するであろう社交上の時間の質を自分で決めるのである。
「自分で決めた時間の質」に異なった「時間の質」が流れ込んできたら、そりゃあ違和感やビックリドッキリを感じるというものだ。
ひとつ目のシチュエーション、多分被害者は「今年中にどこか海外旅行に行きたいと思っているんだよね~」などと他愛のない話をしていたのだろう。それに対して特に何をするわけでもない雑談。
ズバリ「暇つぶし」である。
被害者(結果としてだけど)はこの社交の場において、軽く表面的な会話をすることを選んだ。「暇つぶし」という時間の過ごし方、構造化を選んだのだ。だから話題は「いつかの、どこか」についてである。
それに対してエセコーチ、
「今年中っていつ頃?」「行き先を決めるために何が必要?」
ああ、斬り込んでしまった……。
エセコーチはこの社交の時間を「活動」と規定した。今ここで、具体的な成果のために時間を使うことを選択したのだ。
この場合、具体的な成果とは「被害者から海外旅行に必要な何らかを引き出すこと」だと予想できる。だが被害者の反応は「ええ……」てなもの。明らかに「暇つぶし」の温度ではない。違う濃度の液体が流れ込んできたというか。
上記の記事にはこうも書いた。
「コーチングも同じ。ある枠組み、フレームの中で働いてはじめてその最大限の効果を発揮するというもの。」
コーチングという営みは「活動」のど真ん中。
クライエントもコーチも同じ構造化された時間の中にいるから、具体的な成果に向かえるのだ。
今回の私の結論。