武術は勝つためではなく負けないために修業するものである。つまりは生き延びるためのものである。
生き延びるための手段の一つとして戦いがあるのであって、戦いを回避できればそれに越したことはない。
だから武術は心身の自由度、健康度、囚われのなさや様々な視点を持つこと、自分を良い状態に保つこと、などが重大なテーマとしてある。
それが心身医療、心理療法の分野とクロスオーバーしていることは以前から書いている通り。
両方の世界に足を突っ込む私ならではの見解だ。
そういう観点で武芸書をひもとくと、私の能くするNLPになぞらえたいことが多く目につく。まるでそのために書かれたかのような一節もある。今回はその内二つを紹介したい。
『病気の事
勝たんと一筋に思うも病なり。
兵法使わんと一筋に思うも病なり。
習いのたけを出ださんと
一筋に思うも病・・・』
江戸柳生新陰流総帥、柳生宗矩が著した『兵法家伝書』の一節。
心が何かに留まってしまう状態を「病」と呼んでそれを戒めている。
何とか技法を使わなくては。
目の前の人を助けなくては。
成長しなくては。
それら一心に凝り固まった状態は全て「病」と断じて、良い結果に貢献しないと言っているのである。
しかもこの後出てくる一節が
「病にとらわれちゃいかん、とそれだけにこだわるのも病である」
という徹底ぶり。なんというメタ視点。
NLP自体に魔術的な効果はない。効果を発揮させるのは
「NLPのテクニックとそのテクニックを使おうとしている人(オペレーター)が一致していること」
である。
つまり、
やりたくない、
苦手な、
効果が信じられないテクニックは効かず、
やりたい、
得意な、
心から役に立つと思っているテクニックは効く、ということ。
人の選択肢を広げるテクニックなら、オペレーターが「目の前のクライエントは選択肢を広げることができる」と信じていなければそのテクニックに効果はない。
オペレーターと一致したテクニックがクライエントとの関係性、システムに影響してNLPに力を与えるのだ。
『道は見るべからず、聞くべからず。其見るべく、聞くべきものは道の跡なり。
其跡によつて、其跡なき所を悟る。是を自得といふ。
学は自得にあらざれば用をなさず』
江戸中期の佚斎樗山『天狗芸術論』。天狗が集まって剣術の奥義について議論するという体裁の、その一天狗の発言。
『道理は見ることも聞くこともできない。見たり聞いたりできるのはその道理の痕跡である。
その痕跡によって見ることも聞くこともできない道理を悟るのである。これを自得という。
学問は自得するのでなければ役に立たない』
NLP考え方やテクニックには素晴らしいものがある。
ただし、実践されないそれはただのアイデアや文字情報に過ぎない。
体験し、感じ、初めて意味を成す。
そしてそこから何かを学ぶ。
自得するのである。
その学びが「このテクニックは自分には合わない」でももちろん構わない。
自分に合わないテクニックに効果がないのは前述のとおりである。
病も道理も、私の中では「NLPの柱」というトピックにつながる。
NLPの考え方やテクニックが効果を発揮するのに必要な4本の柱のことだ。
その冒頭に掲げられているのは「あなた」。
どんなにすばらしい理論やテクニックでも、使われなければただの概念。
NLPは「あなた」に使われて初めて意味を成す。
NLPが効果を発揮するには、NLPを活用する主体である「あなた」の存在がまず必要なのだ。
なんてNLP的な考え方だろう!