「怒り」「腹立ち」「憤り」「頭にくる」・・・。
これらの意味の違い、あなたには分かるだろうか。
私には分からない。ただ、確実に言えることが一つある。
言語学の原則として、
“ある二つの言葉の指し示す意味の範囲がまったく同じである場合、そのどちらか一方は消滅する”。
現代日本に「怒り」「腹立ち」「憤り」「頭にくる」という言葉があり、きちんと通用している。ということは、
「怒り」という言葉を使わないと表現できない感情、
同様に
「腹立ち」「憤り」「頭にくる」でなければ指し示せない感情がある
ということだ。
それは
「あたたか」「ほがらか」
「さみしい」「わびしい」
でも同じ。
語彙の複雑さ=思考の複雑さである。同じように、感情を表現する語彙の豊かさも、自分や他者の感情の気づきに役立っているだろう。
そこで考えたいのがおなじみ『ヤバい』である。
自分が置かれた脅威的状況を表現する言葉『ヤバい』。
いつからかポジティブな意味で凄い、素晴らしいを表現する言葉に転用された『ヤバい』。
「いまの若い子は『ヤバい』『ヤバくね?』ばっかり言って、細かな感情のひだとか読み取れないのでは?」
「あんなに語彙が貧困では生産性のあるコミュニケーションは無理だろう」
と、良識人のまゆをひそめさせる『ヤバい』・・・。
「でももしかしたら」
平木先生は考える。
「彼ら彼女らは私たちより文脈を読む能力に長けていて、
『ヤバい』という複雑な意味の束から私たちには分からない適切な意味を拾ってるのかも知れないわよ」
平木先生の新DVDのWEBページで、
“言っていることではなく言わんとしていることを聴く”
という文章を見るたびに、平木先生と交わした『ヤバい』論を思い出す。