NLPを支える柱の一つに「感覚の鋭敏性」という考え方がある。
すなわち
見て
聴いて
感じることについて
鋭敏であること。
特別なことではないし、NLPに限らず大切なことだ。
自分と他者、外界と内界。すべての気づきは感覚を通して得られるものだから、気づかなければ「そこ」あってもないのと同じ。
例えばカウンセリングやコーチング。
目の前のクライエントに対して関心を持つことではじめて、苦しそうな雰囲気や言外に言いたいこと、目の動きや言葉の使い方に鋭敏になるというもの。
そう、「関心を持つこと」で。
そこで疑問が出てくる。
「感覚の鋭敏性って無条件に研ぎ澄ませるものなのか?」
関心や興味のないものに感覚の鋭敏性を発揮することは無理だと思う、というのが私の意見だ。
「お~!」「へえ!」「すごーい!」
数年前、NLPのトレーニング中。私から少し離れた人の輪の中心で、展子先生が何かを見せているようだ。
「ちょっと佐々木さん。これ見てよ」
展子先生がiPad片手に手招きする。
「ブルース・リーが卓球をしている動画なんだけど、すごいのよ」
そういう動画がWEB上にあることは知ってはいた。だが見たことはないし、信用できない。
「それって本当なんですかねえ」
「じゃあ今見せるから」
モノクロの映像。プライベートフィルムらしく画面の前を人が横切る。
遠景に卓球台。向かい合う二人の男。問題は手前の男だ。
あまりにも有名な黄色に黒の線が入ったツナギを身にまとうその姿。
手には同色のヌンチャク。
そして卓球が始まったが、ツナギの男はヌンチャクで球を打ち返し、相手選手を圧倒している。
激しい応酬を追うカメラ。手ブレがひどく、その男自体の動きが激しいため顔をしっかりと捉えられない。しかしその姿はまさしく――!
「夢を壊して申し訳ないけど、これはフェイクムービーですね」
理由はいくつかある。
その1:このツナギ=トラックスーツは香港で撮影された『死亡的遊戯』の衣裳。この映画の撮影を中断して、彼は『燃えよドラゴン』に出演しその直後謎の死を遂げる。
だから「トラックスーツで卓球」など撮影する時間的余裕は無い。
その2:「如何に自分をカッコよく写すか」を死ぬまで考え続けた彼が、プライベートフィルムとはいえ顔のアップが無いのは不自然だ。
その3:武術を武術として見せない=単なる見世物として扱うことを彼は心底嫌っていた。(映画は彼の思想を広めアジア人に誇りを取り戻すための道具である)
その4:スーツを着た身体のフォルムが『死亡的遊戯』のそれではない。
だが一番の決め手は
その5:もしこのフィルムが本物なら私が知っているはずだから。
これに尽きる。
神様ブルース・リーに対して発揮された私の感覚の鋭敏性。
「私に対してブルース・リーの未確認情報など100年早いですよ」
「え~、本物だと思ったのに~」
感覚の鋭敏性と関心度の事を考えると、
このエピソードと残念そうな表情の展子先生の顔を思い出す。