「おのれ清明!」
狂言師・野村萬斎氏が安倍晴明を演じた劇場版『陰陽師』のワンシーン。
余程の人間力がなければ吐けない、また吐いても格好のつかない「おのれ!」というセリフ。その点、清明の敵役、真田広之氏は申し分ない。
燃え盛るアジトをバックに、安倍晴明に野望を阻止された恨みを込めて
「おのれ清明!」
……カッコイイ!
「てめえらの血はなに色だーっ!」
こちらはご存知『北斗の拳』。南斗水鳥拳・レイの名ゼリフである。
年端もいかない少女を傷つける悪漢どもに、普段はクールなレイの怒りに火がついた!
アニメの塩沢兼人氏の声で再生してください。
「てめえらの血はなに色だーっ!」」
……言ってみたい!(けどそんな状況はいやだ)
ここでちょっと立ち止まってみる。不思議だなあと思ったことありません?
おのれ=己。自分のこと。
てめえ=手前。こちらも自分のこと。
本来は自分のことを指す一人称が、
相手に対してかなりの敵意を示す表現になっていることに。
実は「おのれ」「てめえ」の背後にはミル・マスカラスもびっくりの、四次元殺法的ロジックが隠されているのだ。
おのれ、てめえに始まって、わたし、わたくし、俺、儂、拙者、それがし、麿、やつがれ等々、日本語は一人称だけでも百花繚乱。
これは我が国日本において「関係性」というものがいかに重要かを表している。誰とコミュニケーションを取っているかによって自分や相手を表現する言葉を変化させる必要があるということだ。
自分と相手を結ぶ線を引いたとして、
そのラインの上で話をするのが「丁寧語」。
ラインよりも相手を上に上げるのが「尊敬語」。
ラインよりも自分を下に下げるのが「謙譲語」。
私たちにとっては分かりやすいルールでも、外国の方にとって敬語は複雑怪奇なパズルだろうなあ。
そんな「関係性」のルールのひとつに「相手を直接指し示すのは失礼」というものがある。
例えば、あなたの名前を呼び捨てにするのは仲のいい、近しい関係の人だろう。そうでなければ直接名前を呼ぶのは失礼に当たる。となると、その人から離れれば離れるほど、丁寧な表現になるのでは?そうして誕生したのが「敬称」だ。
例えば、「佐々木啓」と私を直接指し示すのが失礼なら、
私の在り様を指す 佐々木様、佐々木さん(さんは様の変化)
私の住まいを指す 佐々木殿、佐々木邸(業界人か?)
役職で呼ぶ 佐々木部長、佐々木但馬守(どちらも関係ない)
私が医師で手紙を送るなら 佐々木先生御侍史(取次役の「侍史」に送っている)
最後のなんて「先生」+「御侍史」でかなり遠い。しかも侍史にまで「御」が付いちゃう丁寧さ。
このように、その人から離れれば離れるほど丁寧で敬意を払う表現になるというのが日本語。
では逆に。その人に敵意を向けて最大限貶めたいという時は?
そう、その人に近づけばよい。
その人に一番近いのは「その人本人」。
つまり「自分」。
己。手前。
「おのれ!」
「てめえ!」
色々な書物をひもとき私が導き出した答えがこれ。このミル・マスカラス的四次元殺法理論に従わなければ、侮蔑語として一人称を使う理由が説明できないのだ。
・・・ちなみにこの侮蔑語理論は、私の大好きなNLPの「言語モデル」ともこれから案内する私のトレーニングとも、何ら関係がないのであった(笑)
《終わり》