唐突ですが、私は『嵐が丘』が好きです。
エミリー・ブロンテ著『Wuthering Heights』。邦題『嵐が丘』(何という名訳!)。
19世紀の英国はヨークシャーを舞台にした、愛と憎しみの物語。ふと気がつくと考えている。『嵐が丘』は私にとってそんな作品です。
『嵐が丘』の何を考えているのかと言うと、主人公の一人ヒースクリフとその周りの人々について。もっと正確に言うと、ヒースクリフの誰にとっても益のない行動と、それを止められない状況のことを、です。
……ああまたいつもの感情が湧き上がってくる。
ヒースクリフ! 何でもっとうまくやらない! 後で自分が苦しむことくらい分かるだろうに!
周りも周りだ。なぜ早い段階でヒースクリフを止めないんだ! いくらでもやり方はあるだろう! 遅すぎる。すべては遅すぎる。
何十年も経ってから窓の外に失ったキャサリンの幻影を見て
「入っておいで!」
なんて言っても遅いんだよ!
もう一度言いますが、私は『嵐が丘』が好きです。
ケイト・ブッシュ作詞作曲『Wuthering Heights』。邦題『嵐が丘』(何という名訳!)。
1978年にリリースされた、ケイト・ブッシュのファーストシングル。そして、私にブロンテの『嵐が丘』を読むきっかけをくれた曲。
何も知らなかったあの頃の私は、
「ヒースクリフ、私よキャシーよ。帰って来たわ。寒いの。窓から中に入れて」
などと何の感慨もなく歌詞カードを読んでいたのですが……。
その後
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』を読了→泣く。
ケイト・ブッシュ『嵐が丘』を再び聴く→号泣する。
という経過をたどりました。
ブロンテの『嵐が丘』でヒースクリフが窓の外に幻視したキャサリン。そのキャサリンが窓の外から「中に入れて」とうたう歌がケイト・ブッシュの『嵐が丘』なのです。ああ、書いているだけで泣きそうだ。
ところで。
ベアトリスのセラピーをどのように進めていくか――。それが『交流分析―心理療法における関係性の視点』という書籍を貫く主題の一つです。ベアトリス、20代女性。そのほっそりした妖精のような外観、ジェスチャー、面影から、セラピストは彼女に対して「すずめ」のイメージを抱きます。
初めはうまくいかなかったセラピーもまあいろいろありまして。ついにセラピストとベアトリスはセッションの終局を迎えることになりました。二人とも別れの時が近づいてきていることははっきりと分かっています。でもどのように終わらせるかについて苦心している。双方ともまだ「さようなら」が言えないのです。
ちょっとしたきっかけで何かが起きそうな予感がセラピールームを包む。そのとき「きっかけ」はセラピールームの外から来ました。全文を引用しましょう。
(前略)
ある日ベアトリスはセラピーを本当に終えるかどうか思案していた。終結は目の前に差し迫っていた。静かに座りながら、二人とも外を吹く風が葉が舞い落としていることに気づいていた。ベアトリスは突然言った。「外に誰かいるのかしら?」
セラピストは、誰もいないわよと即座に答えた。二人は静かに座り続けた。
セラピストはなぜ自分がそんなに確信を持って外には誰もいないと答えたのだろうかと、黙って考えていた。歌の一節が浮かんだ。それは母親のそばに座っている女の子の歌だった。アイリーンという女の子が、母親が眠りにつくのを待っている。母親はそのことに気づいていない。アイリーンは外で自分を待つ男の子に会いにいきたいのだ。
母親が外にいるのは誰かしらと尋ねたとき、アイリーンはただの風よと答える。だが母親が眠りにつけば、アイリーンはすぐに恋人に会いにいくのだ。セラピストはこの黙想をベアトリスに話し、分かち合った。セラピストはベアトリスが自由になって恋人を探しにいくために、自分は「眠りにつく」時がきたのだと悟った。
二人はこれが紛れもない事実だと悟って、涙を流した。別れの時がきたのだ。
(後略)
窓の外にある気配。私には『嵐が丘』を連想せずにはいられません。あのときセラピールームの外にも、ベアトリスを迎えに来た何かがいたのではないか、と。このセラピーも『嵐が丘』も、舞台はともに英国ですし。
「杉田塾 ハーガデン&シルズ著『交流分析』を読み解く編」のWEBページを作るついでに、ベアトリスの別れのシーンを久しぶりに読んでみた感想。
それはおいてもブロンテ『嵐が丘』は一読をお勧めします。それからケイト・ブッシュ『嵐が丘』もね!