欲しいものは欲しいと言え 落とした宝物を ひろいひろいまくれ
一世風靡セピア『汚れちまった悲しみに』の一節です。某男塾の主題歌ということもありますが、私の好きな歌の一つ。
「これはおいしいのでもっと欲しい!」
「このおいしいものをもらえて嬉しい!」
そのような感情や感想を表現することでかつて自分にいいことがあったし、「欲しいものは欲しいと言うともらえる」というのは私の信念の一つです。思えば、あげたものを「おいしい」「嬉しい」と喜んでくれたら、私だったらまたあげたくなりますもの。
ですが、よくよく考えると「欲しいものは欲しいと言え」というのは多分に西洋的です。先日こういうことがありました。
「ママ、つまらないものをあげちゃダメじゃん。いいものじゃないと」
そういうのはコケ柱・長女8歳。彼女の不手際で迷惑をかけた方へ妻がコケ柱を伴って訪れた際、
「これはつまらないものですが……」と差し出したお詫びの品についてのコメントです。
「あのねコケ柱」と妻。
「贈り物をするときは“つまらないものですが”と言って差し出して、受け取る方も“そんなそんな”と言ってすぐ受け取らないの。それが日本のルールなの」
「はじめっから“いいものです”って言えばいいのに」
「いいものをあげるのは当たり前なの。受け取る方もいいものだってわかってるの。ねえパパ」
出番がまわってきた。“つまらないものですが”を丁寧に説明するとこうなる。
「あなたはすばらしい人です。ですから同じようにすばらしいこの品物もあなたに贈るにあたってはつまらないものになってしまいますが……」
西洋では表現の仕方が異なります。
「あなたはすばらしい人です。ですから同じようにすばらしいこの品物をあなたに贈ることができてうれしいです」
相手を大切に思う気持ちは同じですね。
「ふーん」と分かったかどうだかコケ柱。
……そう考えると、私の「欲しいものがあったら言う」という行動原理はいつ、誰から身につけたものなのか?といえば、やはり私の両親が「それをよし」としたからでしょう。
逆に
欲しいものを「欲しい」と言ってはいけない。
欲しいものをもらっても受け取ってはいけない。
欲しくないものをもらっても「いらない」と言ってはいけない。
子供の頃、有形無形のこんなメッセージを受け取っていたら。そして、それを受け入れることが生きていく上で必要な選択だったら。結構生きづらい人生を送りそうな気がします。
文化や伝統、習慣はそれとして、我が子たちにはこれからも「欲しいものは欲しいと言え」というモデルを示していきたいと思います。
「だからね」と妻が会話を引き取ります。
「“これが欲しいです。もらえたら嬉しいです”ってストレートに言うのは、日本ではちょっと、非常識に見られちゃうかもね」
「じゃあパパは非常識なんだね」
モデルは十分に示せているようです。