「もりそばにしようか、それともかけそばか……」
美味しさとスピード、かつ満足感を兼ね備えたランチをとるために、働き人は毎日選択を迫られています。特に今日みたいな暑い日は。
こうしていてもらちがない。炎天下から早く逃れたい気持ちもあって、駅前の立ち食いそば屋にえいやっ、と飛び込む。そして、存外涼しい屋内の空気を感じてかけそばを食したというわけ。
ランチのメニューから進退をかけた重大な決断まで人生は選択の連続。そして、世界で一番有名な決断とその人物といえば、
生きるか死ぬかで悩んだデンマークの王子ハムレットでしょう。
ハムレットは父王を叔父に殺されその復讐を志します。が、あっちにふらふら、こっちにふらふら、どっちつかずの態度で読者をやきもきさせます。
「もう、ほんとに復讐する気があるの!? はっきりして!」
そういう少女マンガ的セリフを私は幾度吐いたことか。
その矛盾した行動はよく言えばギリシア悲劇風の「運命に翻弄される主人公」、悪く言えば自分がなく優柔不断。そう、昔から優柔不断キャラといえばハムレット。そのような悪評を負ってきました。
ですが、あるとき、福田恆存の著書『人間・この劇的なるもの』に出会った事で私のハムレット像は一新されます。そこで展開されるハムレット像を無理やり一行にまとめると次のようになります。
「ハムレットは復讐を遂げつつ破滅するのが自分の役割、ともって任じて行動している」
優柔不断でもない。破滅に向かう人生脚本でもない。やけのやんぱちになっている訳でも、あきらめている訳でもない。天命を受け入れる、といった雰囲気でもない。悲劇的運命は変えようと思えば変えられる。だがハムレットは、「ああ、俺はこうしたら破滅の道を進むことになるけど、俺の役割はこうなんだな」とどこかで思いながら「こう」してしまう、というわけ。
人は「いまここで自分が取るべき役割」を取っているに過ぎない。そしてどのような結末が待っているにせよ「その役割を取ることへのある種の昂揚感」を感じるものなのかもしれません。
そこで『交流分析 心理療法における関係性の視点』です。
「妖精のような」「すずめのイメージを抱かせる」クライエント、ベアトリス。そして彼女とセラピストとの別れ、つまりセッションの終局のシーン。引用しましょう。
セラピストはベアトリスが自由になって恋人を探しにいくために、自分は「眠りにつく」時がきたのだと悟った。二人はこれが紛れもない事実だと悟って、涙を流した。別れの時がきたのだ。
この別れの時に際しての二人の涙にも、「ああ、私たちはここで別れることになるんだな」という「いまここで自分が取るべき役割」と「その役割を取ることへのある種の昂揚感」を感じるのは私だけかしらん。
……よーし、明日はしょうゆラーメンを食べる役割を取るぞ!