「今日習ったこの技、誰彼かまわずかけてみたい」
「この技を遠慮なく使える、そんな機会がやってこないものか……」
なんとも恐ろしい響きです。
が、「この技」を心理療法の技法やカウンセリングスキルに置き換えるとどうでしょうか?
あらゆる習いごと・芸事にその段階はやってくると思います。ですが、意識の焦点が「この技」から目の前のクライエントに向かなければ、よい心理療法やカウンセリングは行えないでしょう。
そしてゲシュタルト療法はクライエントに意識を向けるあまり、クライエントの発する有形無形の情報に対して判断も意味づけも価値づけもしないそうです。それってどういうこと?
そこで思い出されるのが私の愛読書の一節です。
病気の事
勝たんと一筋に思うも病なり。
兵法使わんと一筋に思うも病なり。
習いのたけを出ださんと一筋に思うも病、かからんと一筋に思うも病なり。
待たんと一筋に思うも病なり。
病を去らんと一筋に思い固まりたるも病なり。
何事も心の一筋に留まりたるを病とするなり。
この様々の病、皆心にあるなれば、
これらの病を去って心を調うる事なり。
時代劇でおなじみ、柳生新陰流の『兵法家伝書』からの抜粋です。江戸柳生の総帥、柳生宗矩が著しました。いろいろなフィクションでラスボス扱いされている人物なので耳にしたこともあるかもしれません。
柳生殿は心が何かに留まってしまう状態を「病」と呼んでそれを戒めています。
「習ったあのスキルを使わなくては……」
「目の前の人を助けなくては……」
「この動作には○○の意味があるのでは……」
それら一心に凝り固まった状態は全て「病」であって、良い結果に貢献しないと。
さらに「病にとらわれちゃいかん、とそれだけにこだわるのも病である」とも。何というメタ視点でしょう!
自分は空にして目の前のクライエントさんそのものと向き合う。『兵法家伝書』の一節を心の片隅に置いて今回の動画、「ありのままの自分らしく生きるためのヒント! ②判断、意味づけ、価値づけしない?」をご覧になると分かりやすいかもしれません。
……かえって分かりにくくなった? 多分「病」ですね。