「ちょっと、そのテーブルの上のコップ取ってくれない?」と私。
「はい、これ?」と妻。
「ありがと。とここでストップ。何で右手でコップを取ったの?」
「なんで、って……なんとなく」
「なんとなく? “右手で取ろう”と思って取ったわけではなく?」
「うん」
「ふむん」
「何よ」
「じゃあさ、“右手で取った”ことに理由があるとしたら何?」
「……右手の方が取りやすかったから、かな」
「ふむん」
「だから何なのよ!」
「いやね、『人間に自由意思はない』という意見にも一理あるなあと思って」
「どゆこと?」
「右手で取った理由が<なんとなく>なら人間は無意識で動いてることになるし、<右手の方が取りやすかったから>なら刺激に対する反応で動いてることになる」
「……なるほどねえ。どちらにしてもコップを右手で取ったのは私の自由意思じゃない、と。でも何か詭弁を聞かされてる感じ」
「でもこの考え方って心理学の一大潮流だったんだぜ。精神分析は『人間の行動は無意識に左右される』って主張だし、行動主義は『人間の自由意志に見えるものは錯覚であって、それは刺激―反応が作る条件反射である』と言うとる」
「でもあなたが話を聴かせてくれるゲシュタルト療法とかNLPとか、なんかそういう感じじゃないね」
「そうなのよ。『人間ひとりひとりを独自の存在と見なそう』という人間性心理学という流れがあってね。マズロー曰く」
「マズローって欲求の階層理論の?」
「よく知ってんね。その人間性心理学のからみでアドラーって人がいてね。なかなか理論が面白いのよ」
「いまアドラーが新しい」
「いや100年近く前の人だから」
「いまアドラーが静かなブーム」
「大々的に広まってるって」
「まあいいや。で、何が面白いって?」
「興味深いのはさ、アドラーは葛藤を認めてないみたいなんだよね」
「するべきかせざるべきか、を?」
「そう。精神と身体、理性と感情、意識と無意識なんて対立など無い。人間はある目標に向かって各部が協力する一つの統合体だと言うんだな」
「へえ。じゃあいわゆる葛藤はどう説明されるの?」
「例えば頭ではいけないと分かっているけどついやっちゃう、的なことは『あなたはそういう人なんです』と」
「え?」
「『あなたはいけないと分かっていることをやってしまう人です』と。だって実際何かの目的をもってやっちゃってるんだから」
「なんというか随分実存的な考え方なのね」
「あとすべての問題は人間関係の問題に還元されるとか、人を行動に駆り立てる真の動因は『劣等感を克服するため』であるとか。俺が知らなかっただけだけど、結構新鮮なんだ」
「ふうん。それはそれとして、何であなた急にアドラーの話なんか?」
「……なんとなく、かな」