「あのラーメン屋はまずいんだよね」
二人の男がそう言った。
ひとりはふらっと立ち寄ったその店の醤油ラーメンにひどい目に遭ったという。
もう行くまいと思ったが、ある日魔が差して再び暖簾をくぐると、乾坤一擲、今度は塩ラーメンを頼んでみると・・・。
結果「あのラーメン屋はまずいんだよね」とこうなった。
もうひとりは同じような経験をした友人からあの店のまずさをこんこんと聞かされて、「あのラーメン屋はまずいんだよね」という判断に至ったという。
同じ「あのラーメン屋はまずいんだよね」という信念、ステートメント。だがそこに至る道は大きく違う。
これがロバート・ディルツ氏の言う「信念」の二つのでき方だ。
一つは「自分が体験したことを一般化したもの」。
もう少し詳しく言おう。「信念」とは、特定の状況の特定の体験を一般化したもの。
充分でない体験から導き出されたものである。
例えばひとり目のケース。
たまたまおやじさんの体調が悪く味覚が狂っていたかもしれない。
たまたまおやじさんが倒れてバイトが料理していたかもしれない。
実は味噌ラーメンが世界に二つとない絶品かもしれない。
そんな馬鹿な・・・。いや可能性だけならもっと突拍子もないことだってあり得る。
実際に起きた現象は「あるラーメン屋に二回行った。そして醤油ラーメンと塩ラーメンがまずかった」。その限られた体験から「あのラーメン屋はまずいんだよね」という信念を形成したのである。
良し悪しではない。有限の情報処理能力しか持たない人間にとって、「信念」とはそういう性質を持たざるを得ないのだ。
そして問題だと思われるのはもう一つの方。
「体験を通していない何らかのアイデアがやって来て信念化する」というものだ。
例えばふたり目のケース。
わたしは美的センスと料理の味について人と議論してもしょうがないと思っている。だってどちらも極個人的事柄であり、百万人がまずいと言ったって自分がおいしく感じればそれは正義である。
だからふたり目の男も自分でそのラーメンを食べてみれば、あまりのおいしさに腰を抜かしたかもしれないではないか。
“人は自分の信じているように生きる”と書いた。だからこの男は信念に従い、わざわざまずいラーメンを食べにこの店を訪れないだろう。自分にとっておいしいかもしれないラーメンを食べに。
結果、この男は信念を修正する機会を永遠に失うことになる。
この実体験を通していない信念の恐ろしい点はここにあるのだ。<思考のウイルス>と呼ばれるゆえんである。
この世にはびこる故なき偏見、自分と何の関わりもない人間への憎悪、社会正義の名を借りた非難。これらの大部分が<思考のウイルス>ではないだろうか?
今回の私の結論。