「信念」とは
一つ 特定の状況の特定の体験を一般化したもの
一つ 体験を通していない何らかのアイデアがやって来て信念化したもの
である。
これはNLPの考え方で、私はこれをジョセフ・オコナーさんから学んだ(オコナー氏はロバート・ディルツその人に学んだそうだ)。
人の主観を扱うといえばNLP。
だからその人が何を信じているのか、
体験を通しているのか、はたまた<思考のウイルス>か、
その人にとって役に立っているのか、
役に立っていないなら別の事を信じたいか、
などなどあの手この手で「信念」を突っつく。
NLPのトレーナーになるためのトレーニングコースだったこともあって、「信念」に関してかなりの時間を割いたように記憶している。
そんな最中、私ははたと気がついた。
冒頭に挙げた『「信念」とは~である』もひとつの「信念」と言えるのではないか?
「そうか、信念にはこの二種類があるな」とロバート・ディルツさんに着想させた特定の状況の特定の体験を一般化したものではないのか?
そして、NLPのいう「信念」というアイデアを自分の体験を通さずに受け入れることは、ある意味<思考のウイルス>に感染することではないのか?
もろもろのエクササイズがひと段落したまとめの時間、オコナーさんにそう質問してみた。そしてその答えはいまでも鮮烈なインパクトを伴って私の中にある。
「それはそうだね。そしてそうやって信念をメタ化していくと、世界がアキラを修正しに来るだろうね」
じゃ次~みたいな感じで終わったのだが・・・。
メタとはNLPに頻出する「一段上の」という意。メタ化とは信念に関する信念、に関する信念、に関する・・・と無限に相対化していくと、ということだろうか。
しかし世界が俺を修正しにくる? いったいどういう意味だ?
よーく考えた。そしてある結論に達した。
例えば
地球には重力がある。手から離したものは地面に落ちる。
しかしそれは昨日までそうだったというだけで、今日も同じとは限らないではないか?
人類全体が特定の状況の特定の体験をしており、それを一般化したものが「地球には重力がある。手から離したものは地面に落ちる」という信念ではないのか?
よし、今日は落ちないかもしれない。ビルから飛んでみよう!→落ちて死ぬ。
例えば
「人には親切にする」「相手の気持ちを理解する」などの思いやりや道徳も一種の「信念」だ。自分勝手に振る舞ったって、人に迷惑をかけたって誰も何とも思わないかもしれないじゃないか。
よし、今度のパーティでは自分のことばかり話してやれ→誰も周りに寄り付かない。
この→以降が「世界が修正しにくる」ということだろう。つまり外部からのフィードバックのことだ。
私だって
「すべてはある状況下の体験を一般化したもので確かなものなど何にもないね」
などとエルガイムのOPみたいなことを言っていたら何一つできなくなるだろうし、誰も私に関わり合いを持たなくなるに違いない。
現実―世界は人の「信念」とは関係なくそこにある。私たちが外部からのフィードバック受けとる時、それは現実―世界の何らかのルールに抵触してしまったということなのかもしれない。
今回の私の結論。