初詣に節分、お盆にクリスマス。神社やお寺でお賽銭を納め、「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせる。
日本人はそれと知らずに信仰に取り巻かれているが、特定の宗教を信心しているか? と訊かれるとなんとなく違う気がする。だから「私は無宗教です」と表明することになる。
これをキリスト教圏で言った日には、近しい人はこう言って心配してくれるだろう。
「聞かせてくれ、あなたと神との間に何があったのかを」
“自分にとって役に立ち、他者や世界に迷惑をかけないのだったら何を信じてたっていい”。
この前このように書いた。もちろんそれが「コーチングは使えないらしい」でも一向にかまわない。私の偽らざる気持ちだ。
何でまた急に?
それは、このような前提抜きではまるで私が「“コーチングは使えないらしい”という信念は誤りである」と主張していると誤解されかねないからだ。
「私のやっていることは正しい」「私は正解を知っている」これは別にいいだろう。勇気や自信を与えてくれる信念だ。
ただし「私のやっていること<だけ>が正しい」「私<だけ>は正解を知っている」こう言い出したらもうアウト。
私<だけ>が正しく正解を知っているのなら、私以外の全人類は誤ったことをしており、勘違いをしているということではないか。そこに発展や成長や気づきの余地はない。
当然、自分の準拠枠に合致しない問題、行動、能力、信念、価値観のクライエントを理解することも、関わることもできない。なぜならクライエントは間違っているからである。
コーチングやNLPは学べば学ぶほど、そのような「絶対化」から遠ざかっていく。
人の多様性を知るにつけ、そのような断言がいかにおこがましいかを悟るのだ。
「あなたの理解に従うならば、あなたの考え方に沿うならば、そのように考えるのはもっともですね」
ここから始めるのがコーチングである。
同意することではない。判断を保留したまま相手の世界をまるごと受け取ること。
そして、あなたの世界と私の世界はちょっと違うようですね、とその違いに好奇心を持って関わるのだ。
あなたの信念が「コーチングは使えないらしい」でも一向にかまわない。
だが、あなたに「コーチングは使えないらしい」と一般化させた様々な体験と思考プロセス、
私に「コーチングは使えるものだ」と一般化させた様々な体験と思考プロセス、
その違いには関心がある。
だから私もいつかは問うかもしれない。
「聞かせてくれ、あなたとコーチングとの間に何があったのかを」と。
今回の私の結論。