あるところに羊飼いの少年がいました。この少年は毎日の仕事がとても退屈でした。
少年は主人に「オオカミが出たら呼べ。羊を守りに行く」と言われていたので、
退屈しのぎになるかと大声で呼ばわりながら村に向かいます。
「オオカミが来たぞ!」
大人たちは慌てて牧草地にやってきますがオオカミはいません。
少年はそれを見て大喜び。
味をしめた少年は次の日も「オオカミが来たぞ!」。
その次の日も「オオカミが来たぞ!」。
自分に騙される大人たちが面白くてたまりません。
そんなある日、少年が番をする牧草地に本当にオオカミがやってきました!
少年は血相を変えて「オオカミが来たぞ!」
村の大人たちは・・・。
信念とは「特定の状況の特定の体験を一般化したもの」とも書いた。
信念に限らず、私たちはあらゆるものを「一般化」しながら生きている。いや、「一般化」しないと生きていけないだろう。
一般化はグループを作り、分類し、収納し、参照し、また取り出し利用するための脳みその重要な機能だ。
この機能によって私たちは信号を見るたびに
「この信号も青は進め、赤は止まれだろうか・・・」
と考えなくて済むし、
横断歩道を前にして
「うちの近所と白線の太さが違うけど渡っていいのだろうか・・・」
と悩まずに済んでいる。
何かを学ぶということは代表的ルールから出発してその全体に一般化していく過程である。
世界中のどんな三角形でも内角の和は180度だし、一気圧ならどこでも摂氏100度で水は沸騰する。
楽しいこともカテゴライズできるし、悲しいこともカテゴライズできる。
「人は楽しいときに笑い、悲しいときに泣く」と一般化できる。
だから
「この人の眉毛の角度と目じりの下がり方、これは喜んでいるんだろうか・・・」
といちいち観察しなくても私たちは人と付き合えるのだ。
人間は有限の存在であるからして、世界にあふれるほぼ無限の感覚情報をすべて受け取ることはできない。一般化して身の内に取り込むのだ。
それが信念や準拠枠を作っていく。これは普通のこと。
コーチングで突っつきたいのは「行き過ぎた一般化」である。
本当にオオカミがやってきたので血相を変えた少年の叫び「オオカミが来たぞ!」
「よっしゃ、今度こそ!」ジャキン!
大人たちも“あの羊飼いの少年はいつも嘘をつく”という一般化さえしなければ、
そして少年の常ならぬ声に心を開けば、
村の羊をすべて失うこともなかったなかったろうに。
今回の私の結論。