信念は信じたいから信じている。
だから信じたくなければ信じなければいい。
そして、私たちは日々信念を書き換えながら生きている。
だから重要なのは「わたしは何を信じたいか」である。
そういう想いもあってICCコーチングのウェブページにはこういうことも書いた。
「自分にとってコーチングとは何か、信じるに足る何かはあるのか」
訪問者の中にはこういう人もいるのではないかと予想して書いたのがこの箇所。
私が“信じるに足る何か”を示せているかどうか。今はまだ分からない。
さて、その前段の
何が原因でモヤモヤしていて“信じるに足る何か”が欲しいのか。
想像しながら私はあるアイデアを思い出していた。
ところで。
あなたが「やさしい人」と思える特定個人を念頭に置いてください。
そこで質問。
あなたにその人を「やさしい人」と確信させたものは何だったのでしょうか?
あなたが“やさしい”“親切”と思う振る舞いをしていたから?
何回していました? 一回? 二回? それ以上?
何回目撃したから「やさしい人」と確信したのでしょうか?
それともあなたが「この人はやさしい人だ」と思ったから?
その根拠は何でしたか? そもそも根拠がありましたか?
それともあなたが確信するまでその人が“やさしい”“親切”な振る舞いを続けていたから?
その人とはどのくらいの付き合いですか? それとも実際の付き合いはない?
それともその人があなたに関わる時は、常に“やさしい”“親切”な振る舞いをしているから?
そうでないときはありましたか? あったならあなたの確信はどこから来たのでしょうか?
これも私のお気に入りの考え方の一つ。
NLPのメタプログラム、その中の「確信者モード」という視点である。
「AはBである」「CはDではない」などのように、
ある物事に対する想いが確信にいたる道は私とあなたでは違う可能性がある。
ある人は確信を得るためにある一定の事例の情報が必要かもしれない。
ある人はわずかの情報/まったくの情報なしに自動的に確信に至るかもしれない。
ある人は特定の期間確信を裏付ける情報の首尾一貫が必要かもしれない。
ある人はその時々に確信に足る何かが必要であり、決して“確信”しないかもしれない。
「コーチングも玉石混交、世のなかに浸透し始めていいの悪いの聞くけれど、“コーチングは使えるものである”となんとなく信じたがっている私を確信に導くものは何?」
いやあ、何なんでしょうね。だから上の4つのどこかに引っ掛かる(失礼)ようにはウェブページを作ったつもりなんスけどね。
今回の私の結論。