なんでもいい、いまあなたの目の前にある何かを手に取って欲しい。
・・・取ってくれたことを前提に話を進める。
さて、あなたの手の中には何かがある。そこで質問。
あなたはなぜ「それ」を手にしたのか?
そして、なぜ「そのように」手にしたのか?
なぜ右手を選んだのか? もしくは左手を?
なぜその場所にある「それ」を? 他の「あれ」や「これ」ではなく?
取りやすい位置にあったから? 取りやすい形をしていたから?
なんとなく? それとも明確な理由があって?
どのような答えが返って来ても、そこには一つの疑いがある。
それは「あなたに自由意思はないのかもしれない」というものだ。
あなたが「それ」を手にした理由が<なんとなく>なら、あなたは無意識で動いていることになる。
あなたが「それ」を手にした理由が「取りやすかったから」「他に取るものがなかったから」「何でもよかったから」などの<合目的的な理由>なら、あなたは外界の刺激に対する反応で動いていることになる。
どちらにしてもあなたが「それ」を手にしたのはあなたの自由意志ではない。
かつての心理学の一大潮流は人間をそのように捉えていた。
精神分析は「人間の行動は無意識に左右される」と主張し、
行動主義は「人間の行動は刺激―反応が作る条件反射である」と断じた。
そんなばかな! 私には、いや私たち人間には意思がある!
反撃ののろしが上ったのは約60年前。第三の心理学とよばれ、現代にいたる多様な心理療法を生み出した源泉。「人間ひとりひとりを独自の存在と見なそう」というムーブメント。
人間性心理学の誕生である。が、それが本筋ではない。(富野風に)
無意識だろうが刺激―反応だろうが、はたまた意思であろうがどうでもいい。私がここで扱いたいテーマは、
「人はメリットのあることしかしない。つまり人のやることなすこと信じることは、その人にとってのメリットがあるからそうする」
というものだ。
今回の私の結論。