「バカみたい」
人の考えや行動を評する言葉だ。あなたも口にしたことがあるだろう。私ももちろん、ある。
この「バカみたい」という言葉、自分を振り返る具材、気づきの具材としては上等なものである。いくつか突っついてみよう。
その1 人の考えや行動と「バカみたい」の間には何があるのか?
たとえば、
「こんな炎天下にラーメンを食べるために並ぶなんてバカみたい」
「こんな夜遅くまで出歩いているなんてバカみたい」
「ひまを見つけてはスマホをいじってるなんてバカみたい」
このような例文(ステイトメントと言ってもいいが)を無批判につぶやいてしまったら検討したいことがある。
それは、
“こんな炎天下にラーメンを食べるために並ぶこと”が、具体的にどのように「バカみたい」であることを意味するのか?
である。
たとえば私にとっては「自転車で車道を逆走してくるなんて」バカみたいだ。
具体的にどのように「バカみたい」であることを意味するのかと言われれば・・・。
そうだなあ、まず「するな」と言っていることをしていること、自分の安全を顧みていないこと、のみならず人の安全も迷惑も顧みていないこと、というか人に危害を加えそうなことを平然とやってるところがバッカじゃなかろうか!
と、要するに自分の中のある基準を満たしているかどうかが「バカみたい」と非「バカみたい」の境目だとわかる。当たり前のようだが自分の中の基準が何か、いやそもそも基準があるのかに気づいていない人も多かろう。
他にも
「自転車で車道を逆走してくる」ことが「バカみたい」であることを示すどんな証拠を持っていますか?
なども一歩立ち止まらざるを得ない質問だろう。そして、
あなたが「自転車で車道を逆走」したら、あなたは「バカみたい」ですか?
いやいや、自他ともに認めるグッドドライバーの私が車道を逆走なんてしたこともないし、もしするとしたらそれ相応の理由が・・・。
・・・理由ね、ふむ。というわけで
その2 人が見ることのできるのは行動だけで、行動の意図は見ることができない
私たちが見ることができるのは
炎天下にラーメンを食べるために並んでいる行動(炎天下は個人的基準だ)、
夜遅くまで出歩いている行動(夜遅いかどうかは人によって違う)、
ひまを見つけてはスマホをいじる行動(ひまを見つけてかどうかは知らない)、
そして、自転車で車道を逆走する行動。「行動」だけであって、行動の目的、それらの行動を取らせた肯定的意図を見ることは決してできない。
肯定的意図が見えないからこそ、無批判に「バカみたい」と口に出してしまうのだ。
だからコーチは
行動とその背後にある肯定的意図を切り離して考えることを徹底的に叩き込まれることになる。
今回の私の結論。