エセコーチの「コーチングの評判を地に落とす困った振る舞い」三部作も今回が最後だ。
飽きたから。
さて、なににせよ文章だけでことの是非は問えない。テキストよりも重要なのは文脈、コンテキストである。銭湯に置くか、それとも渋谷の駅前交差点に置くかで「裸の男」の意味が違ってくる。
例えば私と長男坊Pとの会話。
汗まみれで返ってきた彼は服を脱ぎ脱ぎ私にこう尋ねる。
「これって洗濯機に入れればいい?」
Pは小学新一年生。さああなたならどうする?
「洗濯機に入れて」と教える? 「そんなの分かるだろ」と叱る?
ちなみに私はこうだ。
「お前どう思う」
するとPははにかみ? てれ? 何とも言えない表情をして
「洗濯機に入れればいいと思う」
「そうだな、パパもそう思う」で終了。
私はPが「『汗まみれの服は脱いだら洗濯機に入れる』ことを知っている」ことを知っている。だから私は「横着しないで自分で考えなさい」と促すのだ。
自主性を高める、依存関係を断ち切る、ディスカウントをやめる(教えてやったらPの持つ自分のことを自分で考えるという能力をディスカウントすることになる)等々、コンテキストに沿った意図があれば「質問返し」には意味がある。
「課長、次は何をすればいいでしょうか」
「君は何をすればいいと思う?」
使っていない力を発揮させるアプローチは人材育成に必要だろう。
同様にコーチングにおいてコーチの質問と言うのは、
「考えるのはあなたですよ」というコンテキストあってのことだ。
だから
・答えが必要なので質問したら質問し返された
(知らないから質問してるんだけど・・・)
否定的に表現されるこのような所業。多分意図とか文脈とかまったく考慮されずになされたものなのだろう。
「今何時ですか?」
「あなたはどう思います?」
“そんなの自分で調べなさいよ”と言われるより始末に負えない。
「すみません、ここに行きたいんですが」と地図を差し出す。
「私はあなたに地図を読む能力があることを知っています。まず何から始めますか?」
絶句。
思うに「コーチは質問すると質問し返してくる」という誤った印象は、コンテキストに沿ったものとそうでないものとの状況がごっちゃになっているのではあるまいか?
そもそも「質問の内容を明確に理解するための質問」だってある。
質問返しを不当に貶める人は何かの防衛なのか?
というわけで、
コーチの投げかける「質問」には必ず何らかの意図がある。
特にICC認定国際コーチのそれには。
今回の私の結論。