直観とは無意識からやってくるシグナルだと思う。
私たちの脳は死ぬまでフル稼働。世界にあるものを見、聴き、触れ、嗅ぎ、そして味わい続ける。だが限られた情報処理能力しか持たない我々人間は、そのほんの一部にしか“気づいて”いない。
毎日何千人とすれ違う人々の顔、貌、かお。私たちは目にしてはいるが見てはいない。
24時間飛び込んでくる音、声、背景音。私たちは耳にしているが聴いてはいない。
肌に触れる風、靴を通して伝わる地面を踏む感覚、掴んだものの形。
料理の味やにおい。いい香りやおいしいは言えても、そのまじりあった情報を把握できる者は誰もいない。
だが情報はたまり続けていく。場所も引き出し方も分からない。
なにしろ呼び出せるのは“気づいている”ことだけだからだ。
そんなある日、私たちは不意に答えだけを得るという体験をする。
課題について考えて考えて考えまくったその夜の湯船の中。
家中探しても見つからないのでしょうがないから一服したあとくれた一瞥の先。
「今日はこの道を行かない方がよさそうだ」というどこからかやって来た予感。
「意識のこころ」という障壁を超えてやってくる答え。それが直観であろう。
(「この道を行かない方が・・・」など、視覚や聴覚、嗅覚が意識の外で危険を捉えた結果だろうと思う)
不意にやってくる答え。意識で捉えられる因果では説明できない気づき。これらが「よし、直観働かしたろ!」と意識した途端に遠ざかるのはセルフ2と同じ。そんなどうにもコントロールできないものを生産的な営みに、たとえばコーチングなどに活用できるのか?
直観を働かせる方法などあるのか?・・・あるのである。
正確にはこれまたセルフ2と同じ、直観が働きやすい状況を作る方法がいくつかある。
その一つが、湯船やトイレでなど、独りでぼーっとしている時にアイデアがひらめきやすい、ということと関係している。
そう、リラックスすること。過度な筋肉の緊張を避けることである。
よくしたもので、人間は必要な分だけ必要なエネルギーを使うようにできている。それは身体に関しても同じで、必要な箇所で必要なだけ力を発すれば自然のしなやかさを表現できる。弛緩することだけがリラックスではない。
だがセルフ1の登場だ。「上手に」「もっと」「ほらだめだ」と私たちの身体にプレッシャーをかけてくる。
身体には「している」か「してしない」かの二つの状態しかない。
「しようとする」のはセルフ1である。それが要らぬストレスなのだ。
まずはリラックスすること。それが私たちの身の内に貯めた膨大なリソース、無意識、直観の活用方法である。
今回の私の結論。