職業柄、瞑想について学ぶことが多い。
もちろん「学びて時に之を習う。亦説ばしからずや」ということで日々実践してもいる。
勘違いされることも多いが、瞑想とは無念無想になることではない。
呼吸でも、月でも、漢字一文字でもいい、何か一つのことだけに意識を集中し続けることだ。
言うは易く行うは難し。我らはまだ悟りには遠いので、必ず雑念が湧いてくる。
だが、
「余計なことを考えてはいけない」
「この雑念をどうにかしなくては」
このような態度こそ瞑想を邪魔するものである。
前回の記事で紹介したとおり「○○しようと一筋に思うは病なり」。
ではどうするか。
「ああ余計なことを考えているな」と気づくこと。
「“この雑念をどうにかしなくては”と考えているな」と気づくこと。
そしてその気づきをそのままに呼吸なり、月なり、漢字一文字なりに意識を向けなおすこと。
これこそが瞑想である。
ところで。
考えや感情に集中したい時、私たちは自然と目をつぶる。
耳はふさげない。せめて画像情報を遮断して内的世界に没入しようと、こういうわけだ。
ではなぜ、と長年疑問だったことがある。
なぜお釈迦様の像は目を完全につぶっていないのか。
目をつぶった方が集中できそうなものなのに、なぜ半分閉じて半分開けている、いわゆる「半眼」なのか。
なぜ諸仏像は半眼なのか。
なぜ仏道の修行者は半眼で瞑想を行うのか。
直接的には「気功は半眼で行うこと」と教わった。
なぜなの!? 教えてプリーズ!
という疑問に今は一応の解答を見つけている。
それはゲシュタルト療法の気づきの領域について学んだ時のことだ。
人は
内部領域(自分の内側)
外部領域(自分の外側)
中間領域(思考や空想など)
の三つの領域に気づきがある。
そして、どこか一つだけにとどまると問題が起きるとしている・・・。
ユーレカ!
瞑想時、常に外部領域とコンタクトを取り続けるために常に半眼でいるのではないか?
確かに目をつぶり内部領域だけに注意が向くと
誤った悟り=魔境や
悟ったつもり=野狐禅に
陥りやすいだろう。
それを避けるために、地に足をつけた瞑想のために半眼でいるとみた。どーですかお客さん!
池見陽先生がリードしたタイの手動瞑想なんて、
参加者の様子を見ながらしゃべりながらだもんな。
ああいうのが瞑想の原風景なんだろう。
ちなみに私の日々の瞑想は、取り落とすか落とさないかのギリギリの力で木剣を持つ、その手の感覚に注意を集中する。
・・・
修業完成だ!(目ぇつぶってる)